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2010/11/05

Fujiko。

7s_441

クラシック音楽は詳しくないので
(クラシックも、だな)
よくわからないのだが、
フジコ・ヘミングの演奏というのは
好き嫌い、というか演奏としての評価が
わりにはっきりわかれるようなことを
何かで読んだことがある。
それは演奏するうえでの、
奏者の解釈というか、楽譜(=作曲者の意思)への
忠実さの度合いみたいな問題でもあるようだ。
フジコ・ヘミングの演奏というものは
譜面そのものの演奏からすると
かなり自由度の高い演奏なんだろう。
フジコ・ヘミング自身も
機械的な演奏してなにが面白いの的なことを言っている。
たぶん、自由度の高い演奏というのは
過ぎれば「独りよがり」なだけということもあるだろうし、
そういう判断基準が間違ってはいないだろう。
でも、たぶん自分が多少なりとも
クラシックというジャンルの音楽を聴くようになったのは、
「フジコ・ヘミングの」演奏を聴いたから、であるとは思うのだ。
それまで耳にしていたクラシックというものとは
なんていうか音のきらめきみたいなものが
違って聞こえたものなあ。
なんだか、漫画のノダメのような話ですがね。
そんなフジコ・ヘミングの新譜が、『Fujiko』。
曲そのものは、
すでに持っているCDにあるものがほとんどだが、
録音があたらしく、
なんだか音の空気感が違っていてとてもいい。
とくに1番めに入っている「テンペスト」という
初めて聴くベートーベンのピアノ曲は、
なんていうかテンションがあがっていいんである。
仕事で落ち込んだ時とかよさそう。
悲愴さのなかに、ほんのかすかに希望が見える感じ、
自己憐憫のむこうに透ける可能性への希望の光りだ。
なんだそれ。

2009/08/23

犬のぬいぐるみ。

7s_286

ネコ派の我が家ではあるが、
所有している2体のぬいぐるみは、
どちらもイヌなのである。
ワン。
一体は、イヌというかスヌーピーのぬいぐるみで
ツレが学生時代に買ったもの。
そしてもう一体は、これまたツレが
ギャラリーで展示販売されていたものを購入したものだ。
なんでも、東京山の手のある一家が、
自宅を改装する際に処分したものを
一家分まるごと展示即売するという内容だったらしく、
会場にはいろいろなものが並べられ、
一般家庭の昭和という時代を
俯瞰するような展示だったらしい。
ツレはそのなかで、かわいげに首をかしげる
カフェオレ色をしたテリアのようなぬいぐるみに
ハートをわしづかみにされ、結果
そいつは我が家へやってきた、という次第である。
イヌの首には航空会社のタグがついたままになっており、
雰囲気的に外国製に見えることもあって、
その家の誰かが、
海外旅行の際のお土産として購入したのでは、
などど想像できてるのである。
そして、中古なのにあまり汚れてもおらず、
そのぬいぐるみはもしかしたら、
お土産として渡したかった誰かの手には届かず、
納戸か何かにしまい込まれていたのではないかとも思える。
実際に何があったのかは知る術もないけれども
モノの持つストーリーに、
ちょっと想像力をかきたてられて面白い。
後日(ぬいぐるみを購入して何年もたってから)、
とある本を読んでいて、その展示会が
渋谷パルコ・ロゴスギャラリーで開催された
「東京山の手 昭和三代ムラカミ家のモノに見る昭和史」
という企画だったことを知った。

2009/07/07

大船日記。

7s_267

結構字面は理解していても
読みがあやふやな単語・名詞は多い。
比較的国語は得意科目として成長してきてはいるのだが
視覚的に認識はできても、
人前で自信をもって発言できないものもけっこうあるのだった。
固有名詞もそう。
その固有名詞での長年の疑問が、
笠智衆なのである。
そもそもが「笠 智衆」なのか「笠智 衆」なのかさえ
あやふやなのであった。
言訳ではないけれど、テレビや人の話などで
話がでれば読みもわかるだろうけれど、
その機会がないまま時がすぎれば
活字での「笠智衆」しか認識できないまま、
ということもあるのである。
うーん、やっぱり言訳、か。
この大船日記という本を買ってはじめて
「笠 智衆」であることが確認できた。
ちょっとすっきり。
そしてネットで調べて、
「りゅう ちしゅう」であることも判明。
かなりすっきり。
これで、自信を持って人前で笠智衆の話ができる。
したかったのか?自分は笠智衆の話を。
特別に映画ファンでもなく
小津安二郎が好きなわけでもない。
もしかしたらまともにその作品を観たことも
ないかもしれない。なので、
実際のところ、笠智衆といえば
寅さんの御前様の印象のほうが強い。
御前様は、映画のなかのアクセントみたいなもんで
役としての露出が多いわけでもないが、
それでも笠智衆には好感を持っていた。
だれでもそうだと思うのだけれど
あの朴訥とした味がなんとも言えず。
自分にはおじいさんがいない。
というか、自分の出生前に父方も母方も祖父は亡くなっていたので
「おじいちゃん」との接点が無かった。
だから笠智衆に自分のおじいちゃん像を
重ねていたところもあったのだと思う。
この本を読むと、笠智衆はそのイメージそのものの
人柄だったことが良くわかる。
そして笠智衆のような人生は
幸せな人生なのだなとも思った。
小津のことを「小津先生」と呼ぶことに
魚の骨がのどにひっかかったような違和感を覚えつつも。

2009/04/07

阿修羅展。

7s_234

父親からメールがきたのは
3月の上旬だったか。
国立博物館で阿修羅展があるのだが、
なんでもそこで展覧会グッズとして
阿修羅像の公式フィギュアが発売されるので、
それを購入し送れ、との指令であった。
ほう、フィギュア人気もついに仏教界までひろがったかと
しみじみフィギュアの社会的ポジショニングに
思いを馳せつつ、
ええ、ええ、父親の頼みなら、
フィギュアくらい買いにいきましょう、と
先週末上野に脚を運んだのである。
おりしも桜が満開をむかえた土曜日、
上野駅周辺の雑踏の程度を予想しなかったか自分よ、と
思わずツッコミをいれたくなるような人出のなか、
国立博物館にむかったわけである。
そして、行列するのがなにより嫌いな自分であるが
行儀よく入場を待つ列に並んだのであった。
なーに、ほんの40分ほどですがね。
なんだか、このフィギュア、すごい人気らしく
開催初日で現品が売り切れてしまい、
予約販売になっていた。
それも、お一人様1個までですって。
まるでスーパーの特売のよう。
申し込み用紙がわりの宅配便の伝票に実家の住所を記入し、
代金を払って予約完了。やれやれ。
肝心の実物の阿修羅像だが、ガラスなどのカバーを付けず
360度どの方向からも鑑賞できるように展示してあるのが
今回の展覧会のポイントらしい。が、
阿修羅はやはりスター。
群がる人々をかきわけて前列にでる根性もなく
遠巻きにその姿を眺めたのであった。
まえに興福寺で会ってるからいいのよ別に。
がつがつしなくてもっ。
それに阿修羅以外の八部衆像、十大弟子像といったものが
なかなか素晴らしく、見応えがあったもので。
なんていうか、仏像を、かっこいいという目線で
鑑賞できるラインナップなのである。
余談だが会場でレンタルしている音声案内、
ナレーションが黒木瞳らしいのだが、
みうらじゅん先生の解説のほうが良かった、っていうか
面白かったんじゃないかなー、
なんて少し思った。

2008/10/14

スリップウェアの器。

7s_165

松江から電車で二駅ほどのところに
湯町窯はある。
ガイドブックに小さく案内が載っていただけで、
さして期待していたわけでもなく、
窯元に行くこと自体がものめずらしいので
旅行の最終日にちょっと立ち寄ってみたのだった。
予備知識はまったくなかったのだが
湯町窯はスリップウェアと呼ばれる食器で有名で、
ウチにある、備後屋でいいなと思って買った
同じような模様の角皿も
どうやらこの窯のものらしいではないか。
なんという偶然。
そんなわけで、
並べてある器は好みのものばかりで
目移りして困ったのであったが、
けっきょく、30cmほどの角皿を購入した。
ある意味クレジットカードが使えなくて幸いであったな。
湯町窯の開窯は大正11年だそうで、
先代が民芸運動に参加していて、
河井寛次郎、棟方志功とも関連があったらしい。
店の2階がちょっとした展示コーナーになっており
作品が展示してあった。でもけっこう雑に。
高いものなんだろうに、のんびりしたものである。

自宅に戻り、買った器をちょっと飾っておこうと思い、
ソファの前のセンターテーブルに置いてみた。
なんだかとてもいい感じだったりして。

2008/10/09

足立美術館。

7s_164

ジャーナルオブジャパニーズガーデニングという
日本庭園の専門誌がアメリカにあるんだそうだ。
そのJOJGの『優れた日本の庭園ランキング』で
2003年以降グランプリを獲得しているのが
この足立美術館の日本庭園なのだそう。
日本庭園の専門誌、しかもアメリカの。ってどうなんだ。
権威があるのか。ないのか。
しかも、ランキング二位は桂離宮。
知名度が質に比例するわけではないし、
既存の評価が未来永劫続くわけでもないが
この結果はまあ大胆といえば大胆。
決してこの美術館をチャカしているわけではないし、
そもそも桂離宮だって自分の目で見た事はないのだが、
桂離宮を超えた、ってすごくないか。

足立美術館は、
以前ブルータスの美術館特集で見かけて気になっており、
まあ、園芸好きであるので
その庭園が有名だという存在が不思議でもあり興味をひかれ、
今回の旅行で松江までいくついでに立ち寄ったのである。
この美術館、もとは個人のコレクションがベースになっており
横山大観のコレクションが有名らしい。
率直に言って横山大観にあまり興味はなく、
サブ的な展示としてあった
河合寛次郎と北大路魯山人の
陶芸のコレクションのほうが自分にとってはおもしろかった。
とくに魯山人の、大鉢に椿を描いたものがあって
それがとても良かった。陶芸の良しあしがわかるわけではないが
好みにあうものを見る事ができるとうれしいものである。
欲しいぞ。本当に。買えるとしたらいくらなんだろうな。

さて肝心の庭園なんだが。
スケール感があって見事であった。
しかし、
天気が良すぎていまひとつ情緒に欠けたのと、
自分の好みからすると、やや人工的すぎるかなあ。
写真まで人工的な色に撮れてしまった。
エイジングというか
ちょっと自然の手が加わったほうがいいのでは、と
造園の素人は思った次第。
あと。
入場料¥2,200って、高くないかなあー。

2008/07/30

マト…シカ。

7s_137

『青春のロシア・アヴァンギャルド』という
展覧会を観に行った。
ロシア、わりに好きなのである。
モスクワ市近代美術館の所蔵作品を中心に
展示されたというこの展覧会は、
作品数がちょっと少なめだったような気がする。
好きな作品もあったのでこういうとなんなのだが、
でもこれで¥1,400の入場料って高くないか。
¥1,000だったら妥当な気がするぞ。
まあ、今日の本題は展覧会ではないので
これくらいにするが、でも¥1,400はなあ、ぶつぶつ…。
さて最近の展覧会といえば
会場最後のお土産コーナー、…ではなく、
ミュージアム・ショップ、の充実度はたいしたものである。
ほんと、芸術を冒涜しているかのようなGOODS,
しかもオリジナルなやつがわらわらと展示されている。
その展覧会の目玉作品を転写した布とかさあ、
安易なモノがけっこうあるんだなあ。
この『青春のロシア・アヴァンギャルド』も
例外ではなく、そんな安直なお土産品が沢山あった。
まあ正直にいえばそんなお土産屋のようなコーナーを見るのが
けして嫌いなわけでもない。
そんなわけでお土産コーナーをひやかしていると
オリジナル商品以外にも
ロシアの陶器とか民芸品みたいなものが
結構並べられているのである。
うーん、それでいっそう土産物屋感がアップしているのか…。
ロシアといえば、やっぱりマトリョーシカであるが
当然ここにも置いてあった。
でも現代もののマトリョーシカってなんか絵柄がね、どうもね。
アンティークっぽいものだったら違うんだろうけど、などど
冷やかし続けていてふと目に留まったのが
この白木生地のままで絵付けしていない
プレーンなマトリョーシカなのであった。
これ、言われなければ
マトリョーシカって分からないかもなあ。
民族衣装を纏わないマトリョーシカは
なんだかぜいぶんモダンな印象で
作家のつくったオブジェのようでもあるのだった。
きれいなものであるなあ。
こんなにきれいで、しかもたったの¥950なんですよ、奥さん。
これは買わなくっちゃですわよねえ、奥さん。

2008/05/02

カポーティの短編。

7s_086

小さい頃自分が寝ていた部屋には、
すすけたような色のカーテンがさがっていた。
白っぽい生地に
抽象的な柄のあるカーテンだったと思うのだが
その頃の自分には、その柄が、
小さな船をこぐ船頭に見えた。

夜、ふとんにもぐりこんで
顔だけをカーテンのかかる戸口のほうへむけると、
薄明るい外のひかりが透けて、
ぼんやりと小船と船頭が浮かんでくる。
船頭は船の後ろ側にたち、
竹竿のようなものを川底にさし、
ゆっくりと船をすすめているように見える。
その船頭をみていると、なんだか
悲しいようなせつないような気分になった。
隣の部屋には両親がいることがわかっているので
恐怖心はうすく、ただ心細さの感覚が、
ひたひたと押し寄せてくるので、
カーテンを見るのをやめて
枕に顔をうずめるのだった。

あの頃の自分はいったいいくつだったのか。
船頭と小船という図の、
こどもが思い浮かべるにしては
やけに地味でそのくせ突拍子もない感じが
記憶そのものもなんだか曖昧にしていくのだが。

カポーテイの短編には、
子供のときの思いでを素材にしたものが多くあり、
それらを読んでいると、
日頃脳の奥底に埋もれているような
自分のちいさい頃の記憶が
ふとよみがえってきたりする。
それは、こども時代の
漠然とした不安感をただよわせつつも、
おとなになって思い出すぶんには、
すこし甘美なニュアンスもあって、
遠い昔の自分に、声をかけてやりたいような
そんな気分もしたりするのだ。

2008/04/28

ステンドグラス的。

7s_080

教会のステンドグラスを見るのが好きである。
陳腐な言い方だけれども
やはりステンドグラスは光りの芸術であるな。
ガラスというモノを通すことによって、
光りにかたちをあたえ、存在を強調する。

2年ほどまえパリに旅行したとき、
ステンドグラスが有名な教会を2カ所観にいった。
パリから列車で2時間ほどのシャルトルの大聖堂は
荘厳な雰囲気で、なんていうか
キリスト教の世界観にどっぷりひたるような感じである。
もう1カ所のパリのサントシャペルは、
たしか元は王家の専用礼拝堂とかで、
比較的こじんまりとしていつつも
とてもきらびやかな場所であった。

自分がはじめてステンドグラスを「生で」見たのは
いつだったのだろう。
子供のころから教会とはまったく縁のない生活環境だったので、
ある程度おおきくなってからだろうなと、
記憶をたどっていったら、
思い出したのが明治村である。
自分の育った地方では高校生の修学旅行といえば京都で、
行きは新幹線を利用するのだが
帰りは京都から名古屋にはいり
そこからフェリーで地元へもどるのだった。
その帰路に明治村に寄るのである。
ぜんぜん期待していなっかったのだが、
明治時代の建造物を集めた明治村は
それなりに面白い場所だった。
たぶんそのなかに移築された教会があり
そこで見たステンドグラスが初めてだったのだと思う。
そのステンドグラスは階段の踊り場にあって、
サイズも小さいし、さしてドラマチックでもない
素朴なものだったけれど
おだやかな午後の光りのなかで
色をもった光りの絵がきらきらしているのは
とても平和的というか
安息というものを感じさせる場だったような記憶がある。

写真のマリア像は、
うちにある宗教グッズのひとつである。
後光(?)がさしている部分にガラスが埋め込んであり、
これもステンドグラス的なものであるな。
高さ5cmほどのちいさな像なのに
芸が細かいことである。
そういうとこ、ひかれるわけだ。
こんな小さなものに注ぐ情熱に
ぐっとくるわけである。


2008/03/10

MOD EAST。

7s_059

会社のオフィスが入っているビルは
港区の某所にあるのだが、
それがまた古い建物なのである。
ほぼ自分と同年齢。
だけど古い建物は嫌いではないのだ。むしろ好きでさえある。
いまのところに2年ほど前に引っ越してくるまえは、
ビル1Fの駅の改札みたいなところで
カードキーを読み込ませて通るような、
きわめて今っぽいビルにオフィスがあったのだが、
くらべたら現在のビルのほう断然好みなのであった。
なんたって玄関のドアノブは真鍮製で、
毎日掃除のおじさんが
ピカールでキュッキュと磨いていたり、
ホールの壁面や床は大理石を象眼したような加工だったりする。
オフィスの部屋のなかにも、
なぜか直径2メートルほどの柱があったり。

「MOD EAST」という本は、
1960年代の、おもに東京に建てられた建物を
写真にとって集めたものだ。
そこに写っているのは、
保存運動が起こるような古さの建物ではなく、
もう少し今に近い、でも懐かしさは感じるような程度の
古さを持った建物なのである。
廊下を、お茶の水博士とアトムが
ピットンピットンと音をたてながら
歩いているのが似合うような建物である。
うーん、ちょっと違うか?

なんていうか、
ノスタルジックな魅力はもちろんなのだが
古さが目くらましになってわかりにくいのだけれど、
よく見ればそのデザイン感覚は、いま見ても新鮮であるような、
魅力的であるような、
そんな建物が載っているのだ。

こういう建物、残しておいてほしいなあ、と
この「MOD EAST」を見ながら
しみじみ思うわけである。