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2012/12/19

POPEYE。

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夜、ビールでも買おうと
コンビニエンスストアに寄ったのだが、
ふと雑誌コーナーに目を向けるとポパイの新刊号が置いてあった。
インテリア特集で、
パラパラとページをめくると
自分好みの写真がたくさん載っていたので
つい買ってしまった。

最近は以前のようには
雑誌を読む事がなくなった。
それは、活字や情報に対する欲求が
webである程度満たされてしまうのと、
加齢による視力低下(だから老眼って書けばいいものを)で
雑誌を読むことが少し面倒になってきているためである。
(だっていちいち眼鏡をかけんと読めないんだもの)

でも、モノとしての雑誌はやはり好きだし、
今回のポパイは、そのモノとしての佇まいも良かったもので。
そういえば確かポパイは、半年ぐらい前にリニューアルされて、
今のこの内容になったはずである。
版型はさておき編集内容的には
創刊当時の匂いを感じるそのリニューアルは、
自分にとっては非常に懐かしさを覚えるものだ。

年齢がバレてしまうけれど、
高校三年くらいまでは、
創刊号からすべてバックナンバーがとってあったもんだ。
田舎の高校生だから、
その内容は遠く離れた世界のものでしかなかったのだけれど、
遠いなりに、手が届くかもしれない世界でもあり。

そんなことが、このポパイをみて
思い出されたわけです。
郷愁だな。

これ、対象としては
20〜30代前半なのかもしれないけれど
実際購入するのは、
『シティーボーイ』になりたかった、
40代50代の親父だったりしないのかね。

しないのかね。

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2011/07/11

ドラえもん短歌。

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みんな、ドラえもんは好きかい?
え?僕かい?
僕はねえ、好きでも嫌いでもないよ。
そもそも、よく知らないんだもんドラえもん。
でも、年下の友人がさ、
『人生でいちばん影響をうけたのがドラえもん』なんて
言ったりしてね、
たぶん、僕より年代のしたのみんなにとっては
人生の教科書みたいな部分もあったのかな。
ちょっとオーバーかもしれなけどね。

もう何年もまえのことになるけれど、
僕は、短歌がちょっと趣味だったんだ。
でね、ある日ウェブを何気なくみていたら、
ドラえもん短歌っていうのを募集していたわけさ。
選者が枡野浩一という歌人でね、
その枡野さんの短歌が好きだったもので、
応募してみたんだよ。
もちろんテーマはドラえもんなので、
僕の知っているふたつのひみつ道具のひとつ
『どこでもドア』のことを詠んでみたんだ。

そしたら、なんだかドラえもんの雑誌で
入選作として発表されててさ、
うれしかったな。
やがて、それらの短歌をあつめた
『ドラえもん短歌』ってのが
単行本にもなったんだよ。

それから何年かが過ぎた先日のこと、
小学館から小包が届いたので
なにかと思ってあけたなら、
『ドラえもん短歌』が文庫本として
発売になったんだってさ。

さっそく中をみてみると
87ページに載ってたよ、僕の歌。
ひさびさ読みかえしたけど、
良い歌なんだこれが。
才能あったんだなあ僕。
…過去型で書くなんて。
奥ゆかしいね。

本屋さんに行ったらさあ
探して読んでみてほしいなあ。
もちろん僕の歌を。
じーんとくるよー。

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2011/06/09

キネマの神様。

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映画には、
芸術性や文学性があり、
そういう軸で映画を選んだり
評論したりするのは当然のことだ。
でも、映画は
やっぱりエンターテインメントでもある。
映画を見る前のわくわくする感じ、
ストーリーに浸りきる心地よさも、
また映画の良さだろう。

この『キネマの神様』は
そんな映画を軸にした、たぶん家族の再生の物語である。
都合良く運ぶストーリーに、
物語としての深みが足りない、
という印象を持ったとしても、
この小説もまたエンターテインメントなのである。
多少都合良く思うような筋運びでも、
リアリティが薄くても、
小さな奇跡の物語という
エンターテインメント性こそが大事なのである。

なんだか本を読んで、涙がでてくるなんて
久しくなかったので、
泣けた、ということで
この小説のエンターテイメント性に
○をつけたい気分なのかも知れない。

『泣ける』ということを宣伝文句にする本も
たくさんあるけれど、
それで泣けるほどには
素直な自分ではないと思うが、
この本は、たぶん自分の個人的背景に
リンクする部分があり、
涙腺を刺激したのかもなあ。

とりあえず、
おもしろい映画をみたときと
同じ読後感の本だったということだ。

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2011/02/23

玉子 ふわふわ。

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うちのツレの人は、
ベジタリアンにあこがれているらしい。
でも魚介類は食するので、
ベジタリアンではなく、単に肉を食べない人だ。
しかしながら、
一時期はマヨネーズも豆乳酢にしていたくらいなので、
当然ながら我が家では卵を使った料理は登場せず、
自分もコレステロース的な気がかりから
ま、卵が食べたかったら外食すればいいかと思っていたのである。
しかし、ある日ふと気がつくと、
卵を原料に使った菓子類は普通に食べていたので
「意味なくないか」とツレに問うたのだが
「そうなのよ」と当たり前に返答された。
あこがれはあこがれ、ということですか。
お菓子は別腹。意味が違うか。

それで、別に遠慮することもないなと、
自分だけは目玉焼きなど食べるようになったのだが、
ベジタリアンにあこがれはするが
別に卵そのものが嫌いではないツレも
最近は、卵焼きなどをつくるようになった。

そんなわけで、このところ我が家では
シンプルな卵料理が新鮮で、
シミジミとその滋味深さを味わっているのである。
そんな時に本屋で、
この「玉子 ふわふわ」という文庫本を見つけたのである。
料理に関するエッセイなどは、とくに好きでも嫌いでもないが、
(あ、でも食通的なものは嫌いだな)
この本は、玉子にまつわる話を集めたアンソロジーで、
様々な作家や著述家の文章が楽しい。
玉子というのは、誰にとっても身近な食べ物で
だからこそ人それぞれのあれやこれや
話のひろがるものなのだな。
どこかこころやすらぐ
このアンソロジーのテーマを見つけた編者の勝利。

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2010/10/29

ヴィム・ヴェンダース EINMAL。

7s_438

『パリ、テキサス』をはじめて観たときは、
20代の前半だった。
若いせいか、または個人的な資質の問題か、
なんというか、感情というものの巾に対する理解がうすく、
悲しいだとか、楽しいだとか、苦しいだとかいう
単純な感情の狭間、または複合したような
複雑な感情、というものが
あまりよくわからなかった気がする。
なんとなく、
こころのなかにわだかまったそんな感情の存在には
気がつきつつも、それを持て余すというか、
扱いかねるような感じでもあったか。
身もふたもない言い方をすれば
「子供」だったということかもしれない。
それでも『パリ、テキサス』に強い印象をうけ、
監督のヴィム・ベンダースの写真集など
買ったりしたのだろう。
『パリ、テキサス』は、
いわゆるロード・ムービーであるが
この『EINMAL』も大量の写真が淡々と続き
ロード・ムービーのようでもある。
なぜかロード・ムービーというものには、
若い頃の自分が持て余したような複雑な情感が
あふれている。
それは、旅というものが
人の生きて行く時間、人生、そのものだからなのか。
ひさしぶりに、この『EINMAL』を開いていたら
また『パリ、テキサス』が観たくなった。
この年齢で、見直すと
ライ・クーダーの音楽も
ストレートにこころに響くだろうか。

2010/10/06

POPEYE物語。

7s_429

自分が通った高校は新設校で
入学当時2期目だったこともあり、人数も少なく
なんだかのんびりした学校だった。
そして私服であったことと、
頭がとくに良いわけでなく
さりとておバカでもない学力レベルが
よけいのんびりさ加減を増長させていたように思う。
ま、はっきり言ってその頃の自分は
なにも考えていないろくでもない高校生だったわけである。
ま、いまでも、ろくでなさは
あんあまり変わっていませんがね。

その頃はインターネットなど存在しなかったので、
情報というものは雑誌や本から得るものだった。
そして、知的好奇心ではない好奇心にあふれていた高校生の
自分が知りたい知識や情報は、
いつもポパイから得ていたように思う。
カルチャー的な、POPな、風俗的な、そんな情報。
けれども、そんなポパイ的世界にあこがれつつも
その世界は、東京経由の西海岸カルチャーであって、
地方の高校生には現実味の薄い世界だったことも確かである。
同級生には、スケボーを抱えて歩くような奴もいたし、
月に1回、東京に服の買い出しに行く(らしい)奴もいたが、
ほとんどは、垢抜けない地方の高校生なのであった。

たぶん、その時代、
憧れの世界と、自分の存在する空間のギャップが
大きければこそその憧れも強く、
それがポパイがあれほど支持された
理由でもあるような気がする。

2010/09/29

それからはスープのことばかり考えて暮らした。

7s_426

小さいころコーンスープが好きだった。
うちの母親のつくるそれは、
ジャガイモとコーンとタマネギが入っていて
牛乳がベースのシンプルで
ごくごく普通のスープであるが、
牛乳とじゃがいもの優しい味わいと
タマネギとコーンの甘さがうれしくて、
何度もおかわりをして、
暖かく、幸せな気分になったものである。
なぜにスープとはこんなにも
幸福感あふれる料理なんだろうか。
それはスープはスプーンで食べるから、
ではないかなと思うのだ。
おおげさに言えば、
箸という、使うのに技術と慣れが必要な道具を
使わなければならない食事と違い、
スプーンで食べる料理は、
食べることにたいする敷居が低い。
ちいさな子供でも、大人でも
スプーンさえあればでかんたんにすくって
ふぅふぅ言いながら食べられる。
柔かく煮えたさまざまな具も
スプーンひとつで口に運ぶことができる。
そんな、食べることの簡単さが
スープという料理の優しさかも、と思ったのだった。

なんだか、
『それからはスープのことばかり考えて暮らした』
を読んでから、
スープのことをよく考えた2・3日。
とうぜんながらスープをつくりたくなる本でもある。

2010/07/11

藤田嗣治手しごとの家。

7s_400

藤田嗣治なんだが、
長いあいだ、名前を「つぐじ」と思いこんでいた。
そういえば淀川長治も「ちょうじ」って思いこんでいたなあ。
これはどうも自分の姓名のせいかと考えているのだが
自分の名前が「○次=○じ」なので、つい人の名前も「じ」で
終わらせたくなるのかもしれない。
そんなわけで、人前でこの画家の名前を話すときは
要注意なのである。
「あ、レオナール藤田のこと?」なんて、
ごまかせれば年の功というもんだが、
気を許すと「つぐじねっ」なんて言ってしまいそうである。
さて『藤田嗣治手しごとの家』は
藤田の絵画作品ではなく、
『身のまわりのものをことごとく手づくりし』たという
彼の裁縫モノや、大工仕事や、写真、などを紹介した本である。
ブログを読んでくれた知人がこの本の存在を教えてくれたのであるが、
読んでみると、
もともと好きな画家ではあったが、
それにも増して親近感を感じはじめたのであった。
『身のまわりのもの』を手づくりしている、というのは、
当時の社会状況というものがあるにせよ、
きっと自分で「つくる」ことそのものを
楽しんでいたんだと思う。
自分と、巨匠を比べるつもりは毛頭ないが
そんな身の回りの細々したものも楽しみたい、
というような心持ちが
自分と重なる部分があるような気がして
ちょっとうれしかったのである。

2010/06/15

犬が星見たーロシア旅行(単行本)。

7s_392

武田百合子の「犬が星見た」については
以前にも書いたことがある。
何故に2回めなのかといえば、
先日、単行本を買い直したからである。
この本は20代の頃文庫で初めて読んだのだが
そのときには今ほど強い印象を受けたわけでもなく
本棚のスミにしまっておいて、
(たぶんブックオフ行きのなかに紛れ込んだ)
気がついたら無くなっていた。
それからけっこうな年月がたち
「冨士日記」を読んでから、
武田百合子という文章家に惹かれるようになり、
「犬が星みた」を読み直したくて
ふたたび文庫本を買ったのだった。
だから家には文庫版が1冊あるのだが、
去年くらいか、お気に入りの古本屋をぶらついているときに
この本の単行本を見つけたのである。
そして、よく考えればあたりまえなんだが
単行本の存在が新鮮で、
無性にその単行本が欲しくなったのである。
でも、古本とはいえ、たぶん絶版になっていることと、
状態がいいものだったので、だいぶ高かったのだ。
だからその場ではあきらめたのだったが、
このところ旅情モードに入っているので、
ふと先日その本のことを思い出し、
amazonで検索してみた。
そしたら1000円程度のものがあったので
即購入したわけであった。
自分は本のムシというような読書好きではないし、
なんでこんなに「単行本」が欲しくなったのか
よくわからないのだが、
この「犬が星見た」は、
この先何度も読み直すような気がしたのである。
だから手元に、本としての存在感がある単行本を
置いておきたかったのかもしれない。
でも、新本だったらわざわざ買わなかっただろうな。
昭和の時代のロシアの匂いを
濃厚にただよわせるカバーデザインと
モノとしての古書の存在感に
たまらないノスタルジーを感じたから、かもしれない。
そんなわけで、いままた読み直しているのだが
どういうんだろう、
生命感、でも若々しい生命感ではなくて
限りあるということを知った者の生命感、
のようなものが
旅という限定された時間のなかに漂うのである。
限りはあるということ、
それは寂しいけれど悲しくない。
なんだか、
そんなことを思ったりして。

2010/01/13

旅するアメリカ文学 名作126。

7s_343

『旅について書かれたさまざまな本の中から、
著者が気に入った一節を集めた』本である。
小説やらエッセイやらいろいろなアメリカ文学のなかから
お気に入りの一節を抽出して載せてあるのだが、
それら短く切り取られた文章は、
文そのもののリズムや、旅にまつわるさまざまな匂いの断片にあふれ、
想像力をかりたてる。
短編という長さでもなく、2ページ分ほどの量の文章は、
料理のつまみ食いのようでもある。
つまみ食いだけなのがちょっとせつない。
ちびちび水割りを飲むような感じでもある。
余韻を楽しむべき内容であるわけだが、
文学的素養がないとフラストレーションが
たまるのかも。
自分は…、つまみ食いだけで126は、
と少し思いました。

そして本のテーマとともに、
この本にひかれるのはそのたたずまいである。
全体のサイズ感、重さから、
2色使いのシンプルな表紙デザイン、
使っている紙のクラシックで素朴な感じ、
ラフな線画イラストの醸し出す
ほどよい安っぽさカジュアルさが、
はなはだ自分の好みのツボにはまるのであった。
ちょっと著者には失礼なのだが、
わたくし的には、本棚に飾りとして
置いておきたいような本なのである。
内容を期待するジャケ買い、ではなく、
ジャケットそのものが好きで
欲しくなった本なのであった。
まあ、本とはいえ、
存在する『モノ』である限りは
それもしかたのないことである。
あきらめたまえ。って誰にいってるんだ。